2010年08月28日

文学界落選小説 おしろいばな

 
 
 
 雄一は教会に通う子供だった。
 たまたま家の近くにプロテスタントの教会があったから、物心ついたときには既に、彼は日曜学校に通っていた。そして、その教会を遊び場のようにして大きくなった。神に祈ることは、おやすみなさいを言うほどにも自然なことだった。
 教会の牧師は、プロテスタントの神学校を出てこの教会に派遣された独身の女性だった。そして、彼女を長女とする三人姉妹がこの教会に暮らしていた。両親は、隠れキリスタンが生きていたらきっとこうなのだろうと思わせるような純朴なクリスチャンだったが、長女の鏡子が牧師になって数年後、二人ともこの世を去った。それ以来、三人姉妹はこの教会で身を寄り添うように暮らしてきた。
 三人の中で一番きれいな二女の真理子は二十三で結婚したが、別れてまた教会に戻ってきた。なんでも相手の男は、自分はクリスチャンだと嘘をついて真理子と結婚したらしい。それが判ったとき、彼女はきっぱりと男と離婚して教会に戻った。それからは教会関係の出版社で働き、子供たちを相手に日曜学校の先生をするようになった。礼拝のときピアノをとても上手く弾くのは、他の二人と年が離れていて、まだ十代だった末っ子の美奈子だった。
 毎日曜日に来る信者は、多いときでも七、八人。献金だけではとても三人姉妹が食べていくだけの収入にはならなかった。ただ一人働いている二女の真理子の収入と、長女の鏡子が牧師をして本部から支給される運営費でなんとか家計が賄われていた。
 幼い頃からその教会に通っていた雄一は、皆独身である教会の姉妹に、まるで自分の子供のように可愛がられた。特に、日曜学校の先生をしていた真理子は彼を可愛がった。近所の子供たちも四、五人日曜学校に通っていたが、雄一だけは特別だった。日曜学校が終わった後もひとりで教会で遊んでいて、そのまま大人の礼拝に出て、ときにはその後、先生たちと一緒に昼食までご馳走になることもあった。
 雄一の父は彼が三歳のとき女をつくって家から出て行ってしまった。それ以来、母は、彼を保育園に預けて近くの部品工場で働くようになった。朝から夕方まで、月曜から土曜まで働いて、彼を育てていた。
 日曜になると、母は疲れているのだろう、いつもよりも遅く起きた。彼女が目覚めると既に雄一は教会に行ってしまっていた。母は幼い息子がどこに行くのか知っていたので心配しなかった。が、彼女はまだ一度も教会に行ったことがなかった。
 ある日、雄一は小さな金魚蜂に浮かんでいる一匹の金魚の目が濁り、斜めに浮かんでいるのを発見した。水を吸う力もなく、口をたまにしか開かない。目は苦しそうに宙を見ている。母と行った縁日の金魚掬いで、たった一匹掬い上げた金魚だった。そのときの母の笑顔が忘れられず、雄一は母を悲しませたくないと思いながら、ガラス越しに斜めに浮かんだ金魚を見つめていた。
「どうか、金魚を生き返らせてください」
 雄一は思わず神に祈っていた。するとそのとき奇跡が起きた。金魚はびくっと痙攣し、えらを動かした。そして、斜めになっていた体を翻し、尾っぽで水を掻き、真っ直ぐに起き上がった。
「イエス様、どうか金魚を生き返らせてください。アーメン」
 雄一がさらに祈ると、金魚は体を起こし、口を開けて力強く水を吸い込み、元気に泳ぎはじめた。
雄一は幼な心ながら、不思議なことが起きたものだと思ったが、誰にも言わずに黙っていた。
次の日曜日、雄一は日曜学校の真理子先生に聞いてみた。
「ぼくがイエス様にお祈りしたら、金魚が生き返ったんだよ。どうして?」
 真理子は、天使のように笑って答えた。
「イエス様は、あなたが信じたから、あなたの願いを叶えてくださったのよ。なんてすばらしいことでしょう。幼子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないとおっしゃったイエス様。アーメン。あなたは真実です。この子を通じてそのことを私に教えてくださいました。アーメン、主よ。この子は今、天国にいるのです」
 彼女は抱きしめんばかりに感動した目で幼い雄一を見つめた。
 母のところに行き、同じことを言うと彼女は言った。
「そう。おまえが金魚を生き返らせたんだね」
 雄一の目は曇った。
「ううん。そうじゃないよ」
 母は怪訝な顔で雄一に訊ねた。
「だって、神様にお祈りしたんだろ?」
「うん」
「だったら、おまえが金魚を助けたんだよ。それとも、金魚をそんなに愛している気持ちが金魚に伝わったのかもしれないね」
 母はキリスト教会のお祈りを知らなかった。イエス様のお名前によってと祈る時の意味も、そう雄一が祈ったことも知らなかった。
「じゃあ、イエス様が直してくれたんじゃないの?」
 不安げな顔をして見つめる雄一の目を見て、母は顔を輝かせて言った。
「そうだね。そうだったね。雄一はイエス様にお祈りしたのだったね。だから金魚が直ったのだね」
「そうだよ」
「だったら、イエス様が雄一のお祈りを聞いてくださったのかもしれないね」
 それを聞いて雄一は満足した。
 それから毎晩、彼は寝る前に必ずイエス様にお祈りするようになった。
「お母さんをお守りください。そして次に、金魚をお守りください。イエス様のお名前によって、アーメン」


 小学生になっても雄一は日曜学校に通っていた。学校の成績は一番だった。聖書を読んで、毎週聖句を暗唱しているからだとだと彼は思っていた。例えば、「全ての道で主を認めよ」「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった」「真理はあなたたちを自由にする」「神の国はからし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」
 中学生になり、雄一はもうとっくに真理子が教える日曜学校には行かなくなっていた。その代わり、既に三十後半になっていた鏡子が牧師を務める大人の礼拝に毎日曜日出るようになっていた。鏡子は雄一を牧師にしたいと考えはじめていた。それで、中一の夏休み、彼を自分が卒業した神学校のキャンプに行くように勧めた。全国のプロテスタント教会から集まった小・中・高校生がその神学校に一週間泊り込み、聖書を読み、神に祈り、賛美歌を歌い、証しをするキャンプ。プールもあるから泳げるわよ、と鏡子は雄一に言った。それに、楽しいキャンプ・ファイヤーもあるし、卓球もできるわよ。真理子も雄一にキャンプ行きを勧めた。
 しかし、このキャンプの真の狙いは、七日の間に神の使徒となる決心ができるように、つまり、七日の間に、若い小・中・高校生が洗礼を受けたいと自発的に思えるようになるように、信仰を導くためのものだった。ところが、そのことについて雄一は、先生からなにも聞かされていなかった。
 声変わりして陰毛が生えだした雄一は、他人と一緒に風呂に入るのが恥ずかしくて、銭湯に行っても性器をタオルで隠して風呂に入った。だから、一週間泊り込みのキャンプなど行きたくなかった。それに自分が教会に通っていることも、それ以上に恥ずかしいことのように最近感じるようになっていた。なぜなら、雄一には最近、誰にも言えない、それでいてとても恥ずかしい秘密ができてしまったからだ。
「ぼくが夢精してしまったことを知られたら、真理子先生や鏡子先生はなんて思うだろうか」
 雄一は小学六年のとき、自慰することを覚えた。まだ射精しなかったものの、性器を触っていると気持ちがよくなることを発見した。でも、彼はそれをなるべくしないようにしていた。それはいけないことだと思っていた。それは不道徳な行為だ。だから、そんなことはもうしないとイエス様に約束した。もし、またしてしまったら、イエス様に嘘をつくことになる。ところが中学生になると、いきなり夢精してしまい、着ていた下着を濡らした。それからというもの、自慰を我慢していると、夢を見ながらたびたび射精してしまうようになった。それでも雄一は、自分で自慰するよりもましだと思っていた。なぜなら、自分ではやっていないのだから、イエス様との約束を破ったことにはならないからだ。ところが奇妙だったのは、そのとき見る夢が、今まで見たこともないほどリアルだったことだ。それなのに、その内容はあまりにも非現実的だった。夢で見る場面はいったい何を意味しているのだろう。雄一はそのことについて頭を悩ませるようになった。夢精するときに見る夢は、絶対誰にも言えないような恥ずかしい内容だった。なぜそんな夢を見るのか自分でも分からなかった。それに答えられるのは、たぶん神様しかいないだろう。でも、神様でも答えてくれないだろう。なぜならそんな夢を見させているのは、神様ではないはずだから。最近特に、雄一はそう思うようになっていた。神様だけが全てじゃない。もしかしたら、なんでも答えてくれるような全知全能の神など、本当はいないのではないか。そう感じはじめていた。なぜそう思うようになったのかよくわからない。が、彼にとって抑えがたい要求はどうしようもなく募っていくばかりだった。それは、自然の営みのように必然的に湧き上がってきて、我慢できなくなった。それなのに、それは汚らわしい肉欲だということも知っていた。神に背く行為だということも知っていた。だから、自慰をしたいと思っただけでも、そして、たとえ夢精で射精してしまったのだとしても、犯してしまった行為と、心に懐いてしまった汚らわしい欲望とを神に懺悔しなければならない。でも本当にそうなのだろうか。射精し、懺悔する。なんでこんなことを繰り返さなければならないのだろうか。割り切れない思いに、雄一は自問自答を繰り返した。そして、大人になりはじめた肉体の欲望と、罪の意識とのジレンマが、日に日に彼を追い込んでいった。神に対する疑問と、性に対する好奇心の狭間に開いた深淵の中、そこには言葉もなく、聖句も讃美歌もなかった。
 そして、最近また、彼は奇妙な夢を見た。その夢は、今までのものよりもずっと奇妙で強烈で、リアルだった。下着もいつもよりベトベトに濡れていた。夜中、慌てて洗面所に行き、パジャマを脱ぎ、母に気づかれないように静かに汚れた下着を洗った。そのとき彼が思ったのは、あのようなときに、なぜあんな夢を見たのかということだった。下着を汚したことよりも、そのとき見た夢の内容の方があまりにもショッキングだったので、雄一はしばらく途方にくれていた。
 教会の中にいる。
 鏡子先生が鏡の前に立っている。なぜか裸のままだ。しかも全裸だ。三十代後半には見えないくらい若くて張りのある綺麗な肌をしている。体型も女らしく整っている。鏡子先生はいつもロング・スカートを穿き、地味な服を着て教壇に立っていた。ところが、夢の中の先生は、なぜか尼のような白いヴェールを被っている。カトリック教会じゃないからそんな格好はしないはずなのに、マリア様のようにヴェールを被っていて、裾の長いローブを着ている。でもその下は、真っ裸なのを知っている。雄一には見えなくても分かるのだ。そこに、風呂から上がったばかりの二女の真理子先生が、全身から湯気をもうもうと上げて現れる。どうやらここはどこかの温泉らしい。だから全裸で現れてもおかしくないのだろう。でもなぜか戸外の露天風呂の脇に、教会の祭壇がある。即席で作ったセットのように、パネルが立てられていて、十字架が架かっている壁が鏡張りになっている。その壁の正面に鏡子先生が立っている。長いローブを着ているはずなのに、鏡に映った鏡子先生は、なにも纏っていないように見える。全裸のうしろ姿が、礼拝に集まった信者たちに丸見えになっている。丸く光った二つの尻。しなやかに伸びる脚。正面からは見えない肉体の全てが丸見えになっている。するとそこに突然、真理子先生が厳かに祭壇の上に上がってきて、鏡子先生の前に跪いた。すると、なぜか鏡子先生は、なにかに操られているかのように、鏡に映っていた裸の尻を正面に向けて、そのまま祭壇の上に四つん這いになった。風呂上がりの全裸の真理子先生も祭壇の上で両手をついて鏡子先生の突き出した尻の前に顔を近づけ、おもむろに鏡子先生の尻の割れ目を左右に押し広げた。そして、露わになった鏡子先生の股の間を集まった信者に開示しながら言った。
「これがその徴です」
 みんな息を飲んでそれを見つめた。
 当然、雄一もそこにいて、それをじっと見つめた。
 真っ赤にふくらんだ薔薇のつぼみだった。
 すると今度は、真理子先生も自ら祭壇に腰を下ろして両脚を高く上げ、股を開いて陰部を皆に見せながら説教するように言った。
「これはその印です。この違いを覚えておいてください」
 露に濡れ、大きく開花した桃色の薔薇。
 はっきりと、二つの女性器が、薔薇の形になって見えた。雄一は本物の女性器をまだ一度も見たことがなかった。それなのに、夢の中ではそれを見ていた。そして、気づいたときには雄一は、なぜか高い空を飛んでいた。自分の意に反してみるみる上昇し、恐怖を覚えて下を見たが、そこにはもう大地はなかった。既に太陽系の外に出てしまっていることが分かった。未知に対する恐怖と、引き返せない郷愁に胸が締め付けられそうになったが、見ると燃え盛るオレンジ色に光り輝く炎のようなものが近付いてきた。そのとき、なぜか自分がかつていた場所を思い出したような懐かしさが込み上げてきた。気づくと雄一は、大きなUFOの母船の中にいた。見るとそこにさっき全裸で風呂から上がって来た二女の真理子先生がいて、桃色の薔薇の衣装を着てパイプオルガンを演奏していた。大音響が大きな船室の中に響き渡り、雄一が荘厳な気分に包まれていると、若い三女の美奈子が彼の前に現われた。宇宙に浮かんでいる母船の中にいるのに、彼女はいつもと変わらない顔をして、いつもと変わらない黒のブラウスを着ている。何か不自然だったが、突然彼女は雄一に触ってくれと言って胸のボタンを開け、はだけた胸のブラジャーを外した。現れた両乳房は、まぶしくキラキラと光って目がくらみそうになる。おいしそうな果物に見えてきて、むしゃぶりつきたくなる。垂直に乳房が張っていて、ピンク色の乳首が尖っている。雄一は、当然今まで一度も見たことのない若い美奈子の乳房の形を見つめている。それがそのような形をしていることを確かめるように、それにそっと触ると、甘い林檎の匂いがする。桃色の薔薇の衣装を着た真理子先生は、そんな二人を横目で見ながら、結婚行進曲をパイプオルガンの大音響で演奏しはじめる。すると、喪服のような黒い服を着ていた美奈子は、まず黒い上着を脱ぎ、次に腰を締め付けていた黒いスカートを脱いで、白いパンティー一枚の姿で雄一に近づいてきた。雄一が見つめると、履いていたパンティーから透けて、紫色の薔薇のつぼみが見えた。それがだんだんとピンク色になり赤く変色するにつれて、つぼみはだんだん開花していって、美奈子は自らパンティーを脱いで目を瞑って雄一に抱き付き、口の中に舌を入れてきた。慌てて拒絶する雄一の勃起した性器を手にとって、幾重にも重なった薔薇の花弁が開花していく中に包み込み、深く深く沈み込ませていった。
 雄一は、思わず目を覚ました。
 びっしょりと射精していた。
 自分は母子家庭で育った。父の顔も覚えていない。母は工場で働いている。貧しく、家にはテレビもない。だからこんな夢を見るのだ。雄一は悲しくなって、自分でもなぜだか分からずに涙をこぼした。
 なぜぼくは射精するのだろう。いったいさっき見た夢は何だったのだろう。何を意味しているのだろう。なぜあのときの夢だけが、あんなにリアルなのだろう。もし、神がいるなら、そのことを聞いてみたい。なぜ、他の女の人ではなく、教会の先生たちが裸になっていたのか。そしてなぜ、三女の美奈子さんとあんなことをしたのか。
 その夢を見てから、教会の三姉妹を見るのが恥ずかしくなった。
 自分が男であることを、教会の先生たちは知っているのだろうか。自分が男であることを教会の三姉妹はどう思っているのだろうか。
「どう? キャンプに参加する決心はついた?」
 牧師の鏡子は雄一に訊ねた。
 日曜学校の先生の真理子も雄一に言った。
「すばらしい経験になるわよ」
 あまりに勧められるので、雄一は断れなかった。
「わかりました」
 赤面しながら雄一は答えた。


 キャンプの初日は、小・中・高生一緒に行動して過ごした。雄一は、小学生の腕白な男の子たちに取り囲まれた。彼らに気に入られ、一緒にプールに入ったり卓球をして遊んだ。そして、あっという間に初日が過ぎた。ところが、次の日になるとグループ分けがあり、雄一は中学生の男女五、六人の小さなグループに入れられた。それからは、リーダーの指導の下、真面目に聖書についての勉強が始まった。そして、祈り、歌い、三日が過ぎた。リーダーの先生(三十代くらいの男性。この神学校に通う牧師の卵)は、皆に告げた。
「これから、皆さんひとりひとりに、神様についての体験や、この三日間、聖書を学んで思ったことや感じたことなどを自由に、皆の前で語ってもらいます」
 このプロテスタント教会では、神様についての自分の体験を他人に語る“証し”を、とても大切な宗教行為の一つと見做していた。子供たちにも自分の信仰体験を語ることを教えることが、このキャンプの狙いの一つでもあった。
 子供たちの前で、リーダーの先生は自ら、自分の体験をこんなふうに証ししはじめた。
「私はそれまで一度も神様のことを本気で考えたことなどありませんでした。神様がいようといまいと、私には関係ないことだと思っていたのです。ところが、私は五年前に洗礼を受けました。それは、ある方が私を教会に導いてくださったおかげです。はじめは、ただ、誘われたから行ってみただけです。でも幸いなことに、私はそこで初めて神様のことを知ることができたのです。神様はいるのかもしれない、いないのかもしれない。でも、いたとしたら、いるということを知りたい。そんなふうに考えるようになりました。ところがある日、思ってもみないことが起きました。それは、いつものように礼拝の最後に皆でお祈りをしていたときのことです。私は、どうかこの一週間、神さまが私を導かれますように祈っていました。すると突然、私は感じました。そうです、そのとき突然神様が私のところに訪れ、私の心の扉を叩かれたのです。私は一度も開けたことのない心の扉を神様に向かって開けました。いいえ、扉はすでに開かれていたのです。突然、眩しい光のような歓喜が私の胸を満たしました。私の心はその光で満たされ、神様を受け入れていることを実感しました。その体験以来、私はすっかり変わってしまいました。改心したのです。そう、私は自分の罪深さを知ったのです。どんなに自分の心が汚れていたかを知ったのです。だから、私は神の使途となる決心をしました。そして洗礼を受けました。心を洗い流し、今後、私は神様のために働くと決心したのです。するとなんとすばらしいことでしょう! そのとき私の心の扉を叩かれたのは、イエス様ご自身だったのだということがわかったのです! 聖書に書かれてあるとおり、イエス様はいつでもあなたの心の扉が開かれるのを待っていらっしゃいます! アーメン、主よ。私たちは、イエス様が叩かれるこの硬く閉じた心の扉を、たった今、開けなければならないのです。そして、イエス様を最良の友として迎え入れなければならないのです。なぜなら、イエス様は、神様だからです。実を言うと私は、洗礼を受けて以来一度も、自分がクリスチャンだということを誰にも話したことがありません。それでも、どうしてか人によくこう訊かれることがあるのです。あなたは他の人とどこか違っているように見えます、何かなさっているのですか、と。私は、そのようなとき、とても嬉しくなります。私と神様との関係、そのことは誰にも分かりません。でも、人は何かを感じるらしいのです。だから、私はそんなときこう答えることにしています。私は神さまとお友達なのです、と」
 雄一は、この若い牧師の卵が証しするのを聞いていて、何かとても不愉快になってきた。この牧師の卵の話に不自然なものを感じた。どういうわけか、彼は偽善者ではないかと感じたのだ。
「この人は、本当は神のことなどなにもわかっていないのではないか」
 否、もっとはっきりと、雄一は直感した。
「この男は嘘つきだ。偽善者だ」
 なぜそう思ったのか雄一にもわからない。ただ、はこの若い牧師の語り口、その言葉の響きを聞いていると、雄一はとても不快になった。彼の喋る言葉は芝居じみていて、薄っぺらい決まり文句のように聞こえた。だから、彼が洗礼を受けたことなど、他人にとってはどうでもいいことであり、彼の自己満足以外のなにものでもないのではないかと雄一は思った。
「彼が洗礼を受けたとしても、それで誰かが救われることなど一つも無いにちがいない。そんなことでは、この宇宙はまったく、これっぽっちも変化しないだろう」
 それに、どういうわけだか、一度もそんなことは思ったこともなかったのに、「誰がクリスチャンになろうとなるまいと、神とはまったくなんの関係もないことなのだ」と、雄一はそのときはっきりと悟ったのだった。
 雄一は、そんなことを思うなんて、自分でもまったく予期していなかった。キャンプに参加することで信仰が深まるどころか、逆に信仰の偽善を見破ったような気がした。そして、実際に“偽善者”を見つけた、と思った。
 休憩時間になると、卓球台に順番待ちの列ができていた。見ると、あの若い牧師の卵が一人勝ちを続けていた。次々に小中学生を負かして、そのうちに順番を待っている小学生の子供たちを無視して、自分が卓球台を独占してしまった。雄一はそれを見て、さっき感じた直感は正しかったのだと確信した。
「これが偽善者だ」
 教会に巣食う自己満足の低俗な偽善者。
 この偽善者に染まって、他の牧師の卵たちまで、順番待ちをしている子供たちのことをすっかり忘れて、大人同士が卓球の勝負に夢中になっていた。並んでいても卓球をやらせてくれない“キリスト教のリーダー”たちを尻目に、子供たちは白けてバラバラと、どこかへ行ってしまった。
 雄一は、キャンプの七日目の朝、この牧師が洗礼について、さも感動的にこう語るのを聞いた。
「それは啓示です。神様からのお導きです。あなたが神様を選ぶのではなく、あなたが神様に選ばれるのです」
 雄一はこの男のところに歩み寄って行って訊ねた。
「その啓示が悪魔のものではないと、どうやって証明できますか?」
 男はギョッとしてひるんだ。
「神様は真実です。悪魔など寄せつけません!」
「それなら、ぼくも洗礼を受けます」
「よろしい」


 夕方になり、全員が礼拝堂に招集された。広い礼拝堂の中には、見たこともない大人の信者達も大勢座っていた。賛美歌が荘厳に鳴り響く中を、キャンプに集った小・中・高生たちが一列に入場し、一番前の席に着いた。今まで聞いたこともないほど、ピアノとオルガンの演奏がすばらしかった。全員が入場し終わると、若者たちは全員立ち上がって、持っていた賛美歌の本を開き、合唱をはじめた。純心な歌声が加わると賛美歌の神々しさが一段と増したように礼拝堂に響き渡った。
「アーメン、主よ。今晩ここに集った若者は、ひとりびとりが既に神の使途として七日間の導きを受けました。アーメン、主よ。ここにいる若い子羊を一人残らずあなたの元に帰らせてください。まだ罪を知らない純真な少年少女の魂を、悪の誘惑からお守りください。主イエス・キリストの御名によって、アーメン」
 この教会の長老の牧師が静かに、しかも、マイクを通して厳かに語るのを雄一は醒めた思いで聞いていた。全員が声を合わせて祈る声が聖堂を震わせた。
「天にましますわれらの父よ、御名をあがめさせ給え。御国を来たらせ給え。御心の天になるごとく地にもなさせ給え。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救いだし給え。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」
 高い天井の礼拝堂の正面には、丸いステンドグラスがあり、見上げると鳩の形をした白く輝くガラスが埋め込まれている。その左には紫、黄色、群青、緑に彩られたブドウの絵柄が、右には黄緑、オレンジ、黄色、緑で描かれたオリーブの絵柄のステンドグラスがそれぞれ聳え立っている。そして、その下には、右にはオルガン、左にはピアノが一段高いステージの上に置かれていて、それぞれその前に座っている白い衣装を着て頭に白いヴェールを垂らした若い女性の超絶的な技巧によって奏でられている。いつの間にかその音色が讃美歌の前奏に変わると、牧師は再び厳かな口調で言った。
「讃美歌の第一九八番」
 会衆が一斉に讃美歌のページをめくる音と伴に、大合唱が始まった。
――父、御子、み霊(たま)のひとりのみかみよ。
  わが身はいま死に、主にこそ生きけれ。
  きょうより御民(みたみ)のひとりとしたまえ。
  父なるみかみは児として愛(め)でまし、
  なやめる主イエスは、うれいをとり去り、
  いのちのみたまは、ちからをたまいぬ。
  くらきのつかさのもとよりのがれて、
  今しもわが主のきよめをうけたり、
  あくまよしりぞけ、かかわりなければ。
――
 牧師は讃美歌の荘厳な調べが響き渡る中、にわかにマイクを通してキャンプに集った若い男女に語りかけた。
「この中で、私は神の使徒だと思うものは立ちなさい」
 ところが、だれも立ち上がらない。
「われこそは神の使徒として神様と共に歩みたいと思う子羊。あなたは、今日、神に選ばれたのです。あなたを祝福し、あなたを愛し、あなたを導かれる神よ、アーメン。子羊をお導きください。さあ、今こそあなたの意志を示してください!」
 ピアノとオルガンが、にわかに音量を上げて、感動的に賛美歌をリピートしはじめた。
「さあ、勇気をだして立ちなさい。われこそは神の使徒だと思う者よ!」
 雄一はそのとき立ち上がった。
 それを見て、だんだんと、幾人もの子供たちが立ち上がりはじめた。
「前にでていらっしゃい。神の子らよ!」
 雄一は一番最初に前に歩いて行って、この神学校の長老の牧師の前に立った。
 牧師は、雄一の目を見るとマイクを通して言った。
「この世を愛するがゆえに御子をこの世に遣わした。天の父よ、感謝します。子羊が道に迷うことなく、天に導かれますように。アーメン」
 そして、持っていたオリーブ油の入った瓶を雄一の頭にゆっくり傾け、油を注いでその上から手を置いて祈った。
「アーメン。主イエスよ。この純真な幼子を祝福し給え。主イエス・キリストの御名により。アーメン」
 そして、牧師は目を開け、雄一を見て優しく微笑んだ。
そのとき雄一は、これは茶番だと思った。なぜなら、イエスがバプテスマのヨハネから受けた洗礼は、水だったじゃないか。それなのに、自分は頭にオリーブ油を垂らされただけだ。こんな簡単にお終いにするなんて、手抜きじゃないか。それに・・
 雄一は言った。
「神がぼくを選んだんですか?」
 初老の牧師は輝くように笑って答えた。
「そうですよ。たった今、神様があなたを選んだのです。なぜなら、神様はあなたを独り子を愛するように愛しておられるからです。だからこそ、あなたを選んだのです」
「だったら、どうして、ぼくはなにも感じないのでしょう。神様はどこにいるのですか? ぼくにはまったくわかりません。どこですか?」
 牧師は突然暗い顔をした。そして、何も聞こえなかったように、次に待っている子供を祝福しはじめた。
 雄一は、元の席に戻った。あたりを見回すと、もうそこは荘厳でも神々しくもなく、すべてが馬鹿げた作り物の舞台装置に見えた。祝福されて元の席に戻ってきた子供たちは、感動していたり、涙を流していたり、中には大声を上げて嗚咽している者さえいた。が、雄一だけは、何も感じなかった。


 日曜日、礼拝の後で、鏡子は雄一に訊ねた。
「キャンプはすばらしかったでしょ」
「はい」
 雄一は無感動に答えた。
「あなた、油を注がれたのね」
「はい」
 それを聞いて、鏡子は目を輝かせた。
「わあ。なんてすばらしいこと!」
 真理子も、飛び上がらんばかりに喜んで言った。
「洗礼を受けるのね」
「え? あれが洗礼だったんじゃないんですか?」
「そう。そうよ。あなたが、洗礼を受けるというお導きよ。神の子羊として油を注がれたのよ。なんて嬉しいことでしょう。アーメン。来週、ここで洗礼をしましょう!」
 満面の笑みを浮かべた牧師の鏡子は、はしゃいでいた。そして、横で聞いていた三女の美奈子も嬉しそうに白い歯を見せて笑っていた。
 次の日曜日、大人の礼拝が終わった後で、鏡子牧師が四、五人の信者を前にして言った。
「今日は、とても嬉しいお知らせがあります。子供の頃からこの教会に通って神様のお話を聞いてきた雄一さんが、今日、主のお導きによって洗礼を受けることになりました。どうか、皆さんもお時間がある方は、一緒に彼を祝福してあげてください」
 いつもは祭壇になっている所の一部が開けられて、小さなプールのような窪みに水が張られていた。三女の美奈子が下手にあるピアノを弾く中、二女の真理子がパンツ一枚になった雄一をそのプールに導いた。
 四、五人の居残った信者が雄一を見守っている。
 祭壇の上に立った鏡子は信者に尻を向け、正面の十字架を見上げて何かを小声で祈った。すると、真理子が雄一の手をとって水の中に導き入れた。牧師の鏡子は身をかがめて、水に浸かった雄一の頭に手を置いて祈った。
「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。アーメン。主よ。この子を祝福し給え」
 そのとき、身をかがめた鏡子のブラウスの大きな襟元から、ブラジャーをしている乳房の谷間が見えた。腰まで水に浸かっている雄一は、自分を祝福している牧師の膨らんだ胸の谷間に汗が光って流れ落ちるのを見た。
 祈りを終えると鏡子は、目を開けて上体を起こし、まだ水に浸かっている雄一の前で身を翻した。見上げると、薄いブルーのスカートに覆われた尻が見えた。なぜか彼女の服までが水に濡れて、透けて見えるような気がした。夢で見た鏡子先生の裸の丸い尻を思い出した。そして、今さっき見た現実の乳房の谷間と、今思い出した非現実の尻が一緒になって、鏡子先生が夢のときのように全裸になっているように見えてきて、雄一は思わず勃起してしまった。それでも、そのままその場で雄一の手をとった真理子が、彼を浸かっていた水から優しく引き上げたから、水に濡れたパンツから勃起した性器がはみ出てしまうのではないかと思って、雄一は慌てて後ろを向いた。
 もう二十を過ぎていたが、まだ男に触れたこともない美奈子は、ピアノの前に座ったまま、雄一が水から上がるのを見つめていた。そのとき、正面からは見えないように後ろを向いた雄一の下半身が見えた。裸の雄一が唯一身に付けている白いパンツ。それが水に濡れて透き通っている。硬く伸びた男根が木綿の布を持ち上げて、横から勃起した白いペニスが丸見えになっている。祭壇の左の美奈子の位置からは、はっきりとそれが見えた。そのときなぜか急に、彼のことを愛おしく想った。そして、雄一のことを初めて男として感じた。美奈子はそのことを、まるで路上で拾った小さな宝石のように、そっと胸の奥にしまい込んだ。


 雄一は、高校生になっていた。
 ある日、夕暮れになって、思い切って近くにあった禅寺の門を潜った。
「禅には神様なんていないんだよ。ただ静かに坐って自分を見つめるんだ。そこに何があるか、自分で見極めるんだ」
 修(おさむ)が言った台詞だ。
 中一のとき、洗礼を受けても何も起きなかった雄一は、その後、強度の自己嫌悪に陥った。それ以来、教会の先生たちとは、以前のようには話ができなくなっていた。
「自分はバカみたいだ。否、バカだ。だって、洗礼を受けて自分に起きたのは、教会の先生たちの前で、思わず勃起してしまったことだけだった。そして、それ以外、何も起きなかった。神の啓示も、イエス様の存在も、何も感じなかった。ただぼくは、かがんだ鏡子先生の胸の谷間が見えたから、思わず勃起してしまった。濡れたパンツを穿いたまま、祭壇の上でぶざまに勃起して、恥を晒しただけだ。ぼくの洗礼は、神聖でもなんでもなくて、ただそんなバカみたいなものになってしまった。何の意味もないぼくという存在。洗礼なんてそれと同じだ」
 雄一は自暴自棄になって、それ以来、自分を決して認めないようにしていた。その頃できた友人の修は不良だったが、とても奇妙な奴だった。どういう訳か、雄一のことを気に入ったらしく、休み時間になると雄一の所に来るようになった。はじめは煩わしく感じていたが、そのうちに修と気が合うことに気づいた。修は自分は超能力が使えると雄一に言った。幽霊も見える。信じないだろ? 雄一は信じると言った。すると修は、自分の家は代々宗教は禅宗だ。お前の家は何宗だと訊いてきた。ずいぶん変なことを訊く奴だと思ったが、考えてみると、自分が母と暮らしているアパートには仏壇もないし、神棚も祭壇もない。でも、昔、母に連れて行かれた田舎には仏壇があって、南無阿弥陀仏と書かれていた。確か、それが浄土宗だと覚えていた。だから、浄土宗だ、と答えた。すると、それを聞いた修は、奇妙なことを言った。
「禅宗と浄土宗はまったく逆なんだってさ。禅は自分を頼りにするが、浄土宗は自分を頼らない。でも、自分を見つめるということにおいては、両方とも同じらしいぜ」
 修は不良で成績も悪いのに、なぜこんなことばかりはよく知っているのだろうと思ったが、雄一は自分がクリスチャンだということは隠していた。
「おまえよー。キリスト教だけはやめとけよ。あんなの嘘っぱちだからな。右の頬をぶたれたら左の頬も出せなんてよー」
 雄一はムッとした。キリスト教が嘘っぱちなんてありえない。確かに中には嘘っぱちの偽善者もいる。それに・・自分は、洗礼を受けても自己嫌悪以外の何物も得るものはなかった。でも、イエスが言ったこと、したことは嘘っぱちじゃない。
 すると、修は言ったのだ。
「禅には神様なんていないんだ。ただ静かに坐って自分を見つめるんだ。そこに何があるか、自分で見極めるんだ」
 雄一は修の言葉を聞いて、なぜかとてもショックを受けた。なぜそんなことを修は言ったのか、ずっと気になっていた。それを思い出したわけでもないのだが、高校に入ると雄一は、思い切って近くにあった禅寺の門を潜った。
 その日は偶然にも参禅会をやっていて、寺の和尚とも話をすることができた。見た目にはおっかない和尚かと思ったが、話してみるとまったく逆で、気さくでおかしい和尚だった。それから、毎週参禅会に参加するようになった。
 ある日、夜中、ひとりで座禅していると、急に辺りが明るくなった。目を閉じているのに、辺りが見える。何もかもがはっきりと見える。ただ、なにかがいつも見ている部屋とは違っている。奇妙だ。よく見ると、あるはずのない時計が部屋に置かれている。しかも、一つだけでなく三個も並んでいる。そして、それが全部六時を指している。つまり、三つの時計の針が全部真っ直ぐ垂直に立っているのだ。背筋が寒くなったとき、時計が一斉に鳴りだした。
 雄一はびっくりして座禅を解き、洗面所に走った。そして、そこにあった鏡を覗いた。すると、自分の目玉が真っ赤で、オレンジ色の光を発していた。びっくりして気づいてみると、自分は真っ暗な部屋の中で座禅を組んで寝ていた。


 十六になった雄一は、三女の美奈子に思い切って訊いてみた。彼女はもう二十代も半ばになっていたが、三姉妹の中では一番歳が若く、自分の気持ちを分かってもらえそうな気がしたからだ。
 日曜の大人の礼拝が終わって昼食を食べ終わった昼下がり、信者がみんな帰って誰もいなくなった礼拝堂にぶらっと行ってみたら、彼女がひとりでピアノを弾いていたのだ。
「ねえ。臨済宗って知ってる?」
 今まで一度も、自分が坐禅をしていることを教会の人に話したことはなかった。でも、なぜか今、美奈子にだけはそのことを話しておきたいと思った。
「え? リンザイシュウ? なんか、とっても怖い異端宗教みたいね」
「そんなことないよ。禅宗だよ。坐禅って知ってるでしょ? ただ、静かに坐って瞑想するあれだよ」
「へー、それがどうしたの? あたしはあまり詳しくないから、宗教のこと」
「え? だって、美奈子さんは教会で暮らしているじゃないか」
「そう。両親が亡くなってからずっと。だってあたしの家はずっとキリスト教だもの・・」
 ピアノの前に座ったまま、突然なぜそんなことを訊くのか理解できないといった不思議そうな顔で、傍らに立っている雄一を見つめた。すると雄一は、ぶっきらぼうに美奈子に近づきながら言った。
「ねえ。変なこと訊いていい?」
「え? どんなこと?」
「気を悪くしたらごめんなさいね。でも、クリスチャンであることに疑問を持ったことないの?」
「え、疑問? どうして?」
「だって、家族みんなキリスト教だったんでしょ? それに今も・・。でも自分はそれについて、疑問を持ったこと、ないの?」
「え、どういうこと?」
 訝しげに美奈子は額に皺を寄せた。
「つまり、自分だけは他の宗教を信じようと思ったりしたことはないの?」
「ないわ」
 美奈子はきっぱりと答えた。
「どうして?」
「だって、それ以外なにも知らないもの」
 美奈子は当たり前のことのように答えた。
 幸せなんだね、と言おうとして、雄一は言葉を呑んだ。
「ぼく、坐禅をしてるんだ。臨済宗の・・」
「え? 雄一さんが?」
 美奈子は急に暗い顔をして雄一を見つめた。
「うん」
「じゃあイエス様は? もう信じてないの?」
「ううん。信じてるよ」
 訝しげに見つめる美奈子の目を見ていると、雄一はまた、あの中学のとき見た夢を思い出した。あのとき、今よりももっと若かった美奈子が、触ってくれと言って胸をはだけて乳房を出した姿。雄一は、時々それを思い出しては、自慰をした。その胸は張っていて、甘い林檎の匂いがした。乳首はピンク色に光っていて、その先を指先で触ったときの弾力。それは今まで一度も忘れたことがなかった。そして彼女は雄一の口に舌を入れたのだ。そのときの美奈子の舌の濡れた吸いつくような感触まで、今でもはっきり覚えている。そして、雄一は彼女の中に男根を入れ、射精までしたのだ・・。
 一方、美奈子は雄一が洗礼を受けた時のことを思い出していた。あのとき美奈子はまだ大学の四年生だった。奨学金を借りて三姉妹の中でひとりだけ大学に通っていた美奈子は、大学を卒業すると教会の音楽関係の出版社に就職した。毎月の給料で借りていた学費を返しながら、教会に給料の十分の一を献金し、残りのほとんどを三姉妹の生活費に充てていた。雄一の家庭も貧しいのを知っていたから、同情が募っていったのかもしれない。あれ以来、なんとなく雄一のことが気になっていた。それとも、もしかしたら、この子が好きなのかもしれない。美奈子には自分の気持ちが分からなかった。が、既に何年も経っているのに、洗礼のとき、雄一の勃起したペニスを見たことだけは、未だに昨日のことのように覚えていた。あのとき、まだ中学生だった雄一の勃起したペニスが濡れた白いグンゼのブリーフを持ち上げているのが見えた、そして、そのとき、なぜかとてもかわいそうだと思った。アレを見たのはたぶん自分だけだ。この子はそのことを知っているのだろうか。それに、どうして、いつもは純真な雄一が、あのときに限って、あんなになっていたんだろう。日曜の礼拝で雄一を見る度に、そのことが気になっていた。初めて洗礼を受けるから緊張していたのだろうか? それとも、みんなに見られていて恥ずかしかったからだろうか? それとも、水に濡れて寒かったからあんなになってしまったのだろうか? もしかしたら、おしっこがしたかったのかもしれない。それともなにかに興奮していたのだろうか?
「ねえ。今日お姉さんたち、みんないないのよ。教会の会合に行ってて、あたしがひとりで留守番なの。ちょっと上に上がっていかない?」
 礼拝堂の祭壇の両脇には扉があって、その奥にはそれぞれ小さな部屋があった。左の扉を入ると、そこには白いテーブルクロスを敷いた小さな食卓があって、雄一はそこでときどき昼食を御馳走になった。そのとき、そのさらに奥に、上に上がる狭くて急な階段があることに気づいていた、が、雄一はもちろん今まで一度もその階段を上がったことはなかった。きっと姉妹の寝室に続いているだろうことは想像がついた。でも、そんな処へ案内されることがあるなんて、今まで夢にも考えたことがなかった。
 美奈子は「こっちにいらしゃい」と言いながら、ピアノの奥の左の扉を開けると中に入った。白いテーブルクロスの机はきれいに片付いていて、中はとても静かだった。前に見たことがある奥の階段を美奈子が上がって行く。狭くて急な階段。雄一も、まるで梯子を登るように美奈子の後を一段一段ついて行った。
「狭いでしょ。気をつけてね。あたま」
 上は屋根裏部屋になっていて、梁がむき出しの天井が、思ったよりも高くて雄一は驚いた。
 真中に高い壁がある。ということは、祭壇の右の扉から入って階段を上がれば、左右対称の向こうの屋根裏部屋に出るのだろう。きっと、向こうの屋根裏部屋は姉妹で共有しているのだろう。かなり広いこっちの空間は、どうやら美奈子ひとりの部屋らしい。腰の高さくらいしかない衣装箪笥。その横にはベッド。そして、ベッドの枕元には、背の高い白い布のランプシェードの掛かった電気スタンドがあり、その横には、小さな机と白い背もたれの椅子が一つだけ置かれている。机の上には、聖書と何冊かのキリスト教関係の本が並んでいる。
「その椅子に座って」
 美奈子は机の前の白い背もたれの椅子を指差した。
「いい部屋だね」
 椅子に座って雄一が言うと、
「なにもないでしょ。事務所に本とかCDとかなんでもあるから、ここには何もなくてもいいの」
 美奈子は、自分のベッドに座って雄一を見つめた。そして、静かに言った。
「あなたが坐禅をしてること、あたしいいと思うわ」
 それを聞いた雄一は、なんだか美奈子にすべてを許されたように感じて、嬉しくなった。
「そうだわ。あなた、音楽聞く?」
「うん」
 雄一が肯くと、美奈子は衣装箪笥の上に並んでいる数枚のレコードから一枚を抜き出してきてジャケットからレコードを手際よく取り出した。
「あたし、これが一番好きなの」
 そう言いながら空のジャケットを雄一に手渡した。
 モンテヴェルディ、「童貞マリアの晩課」と書いてある。でも、“晩課”って“晩歌”のミスプリじゃないのかと雄一は思った。でも、キリスト教では、“晩課”っていう特別の日課のようなものがあるのかもしれない。
「今どきレコードなんて古いでしょ。教会で使ってたお古のプレーヤー、ここに持ってきちゃったの」
 そう言いながら美奈子は、衣装箪笥の上のレコードプレーヤーにレコード盤を乗せると、針を落とした。
 男性の独唱に続き、混声の合唱が始まった。ジャケットを見ると、一曲目は『主よ、われを救い給え』と書いてある。

――ハレルヤ、ハレールヤ、ハレールヤ、ハーレーエールヤ!――

 ハレルヤの大合唱で一曲目が終わると、二曲目の『主は言い給えり』のグレゴリア・チャント風の男性の独唱に続いて、透き通るような混声の輪唱が始まった。
「いい曲だね」
 雄一が静かに言うと、
「そうでしょ。モンテヴェルディってあたし一番好きなの。このレコード、会社にあったの借りてきたの」
 美奈子は嬉しそうに応えた。
「そういえば、美奈子さん、教会の音楽関係の会社に勤めてるんだよね」
「そう。聖歌とかも研究してるのよ」
「へー、研究?」
「そう。世界中から楽譜を取り寄せたり、歌詞を翻訳なんかもしてるのよ。でも、いつも不思議に思ってるのに誰にも訊けないことがあるのよ。ねえ。変なこと聞くと思わないでちょうだいね。でも、雄一さんなら知ってるかもしれないと思って・・。どうしてなのかしら?」
「え、なにが?」
「そのジャケットに書いてあるでしょ。どうして、童貞マリアなのかしら?」
「え?」
「変に思わないでね。でも、童貞って書いてあるでしょ?」
「うん」
 渡されたレコードジャケットには確かに“童貞マリアの晩課”と書いてあって、それを見たとき雄一も違和感を覚えた。
「他のにもそう書いてあるのよ。でも、童貞って男性でしょ?」
「そうだよね」
 雄一は赤くなって答えた。
「それなのにどうしてマリア様が童貞なのかしら? 女性なんだから処女マリアって言うんなんじゃない?」
 突然そんなことを訊かれても雄一にも分からなかったが、なんだか自分のことを童貞、童貞と言われているような気がしてきて、なぜかどきどきした。
「なんか変よね。それとも童貞ってなにか他の意味があるのかしら?」
「う、ううん・・。ぼくにもわからないよ」
 もじもじしている雄一を見て、美奈子はまた、洗礼のときのブリーフの横から見えた雄一のペニスのことを思い出した。
「あなた、カストラートって知ってる?」
「え? カストラート? ううん」
 雄一は首を横に振った。急に話題が飛んだから“童貞”のことは諦めたのだろうと雄一は思った。ところが、美奈子は雄一の股間をちょっと一瞥してから言った。
「あたし、大学のオペラの授業で聴いたのよ。最後のカストラートが歌った賛美歌のレコード。その声が忘れられないの」
「へえ。でもカストラートって何?」
 雄一が訊ねると、美奈子はちょっと間を置いてから言った。
「カストラートって、声変わりする前に、男の人のアレを去勢しちゃった人のことなの。そうすると、いつまでも少年のような声のままでいられるんだって。男の人って声変わりするでしょ。そうすると、少年のときのソプラノはもう絶対に大人の男の人には歌えなくなるでしょ。でもカストラートは大人でも少年のような綺麗な声で歌えるのよ」
「そうなんだ。でも、それってひどくない?」
「あたしもそう思ったわ。だから十九世紀の半ばには禁止されたんだって。でも、最後のカストラートの録音がたった一曲だけ録音されて残ってたの。あたし、大学の授業でそれ聞いたのよ・・」
「どうだった?」
「一度聞いただけなのに、二度と忘れられなくなったわ。あの歌声。なにか純粋で物悲しくて・・」
「物悲しい?」
「そう。去勢された男の人の歌声だと思って聞いたから、余計そう感じたのかしら・・。でもとっても悲しい歌声だった。イエス様を讃えてる歌だったのだけれど・・なにかとっても物悲しいの・・」
「ぼくも聴いてみたいな」
「そう? あたしも、もう一度聞きたいと思って古レコード屋を探してるんだけど、見つけたら必ず聞かせてあげるわね」
「うん」
「でも、いつになるかわからないわよ」
「なんか貴重そうだね。でも・・、ぼくだったら、絶対いやだよ」
「あら、なにが?」
「なにがって、去勢されるんでしょ?」
「アハハ。雄一さんならだいじょうぶよ。だって、もう声変わりしてるでしょ?」
「うん」
 美奈子がいつもより色っぽい目で雄一を見たような気がして、思わずドキッとした。
「ねえ、雄一さん、あなたやっぱり童貞? よね?」
「え?」
「そうよね? まだ高校生なんだから、そうなんでしょ?」
 急にそんなことを訊かれるなんて思ってもみなかったから、なんて答えていいのかわからなった。もしそうだと答えたら、きっと馬鹿にされるだろうと思った、が、嘘は言えない。
「うん」
 雄一は正直に頷くと、美奈子は大きな目を輝かせた。
「ねえ、美奈子さんはどうなの?」
「え? どうなのって?」
「処女?」
 美奈子はそれに答えずに、
「ねえ、こっちに来て」と言って自分の座っているベッドの横を叩いて「ここに座って」と雄一を導いた。
 「ねえ、あたし・・」と言いながら顔を近づけると、急に「好きよ」と言って雄一にキスをした。
 雄一も思わず美奈子に抱きついた。
 美奈子の舌が雄一の舌に絡まり、二人は抱き合ってベッドの上に転がった。
「雄一さん」
「なに?」
「あたし・・あのとき、見ちゃったのよ」
「あのとき?」
「そう、あなたの洗礼のとき。ごめんなさいね」
「あ・・ああ・・」
「ねえ、あなた・・。興味ない?」
「え、なにが?」
「女のあそこどうなってるか、知ってる?」
「え?」
「あそこ、見せてあげようか?」
「え?」
「あなたの見ちゃったから、あたしのも見せてあげようか?」
 ベッドに転がった二人は、キスした口を離してお互いの目を見つめ合った。
「あたし、処女よ。こんなことしたことないの。本当よ。でも、雄一さんならいいわ。それとも・・見たくない?」
「え、う・・うん」
「じゃあ、あなたのも、もう一度見せて」
「え?」
 美奈子はベッドの上に雄一を横にすると、ズボンのベルトを外し、ゆっくりと下に滑らせていった。そして、あのときと同じ雄一の白いブリーフに手を掛けてそっと下に下ろした。
 そのとき、勃起しているペニスにブリーフが引っ掛かった。
「ねえ、雄一さん、これ、どうして、こんななってるの?」
「・・・」
「やらしいこと考えてるの?」
「・・・」
「これって、やらしいこと考えるとこうなるんでしょ?」
「う・・うん」
 それを訊いて初めて納得したように美奈子は言った。
「じゃあ、あのときもそうだったの?」
 そう言いながらペニスに引っ掛かっていたブリーフを下まで下ろすと、美奈子は雄一の目をのぞき込んだ。
 黙っている雄一は赤面していた。そして、勃起したペニスも真っ赤に充血していた。
「こんな大きくなるなんて、不思議」
「ねえ。嫌だよ。ぼくだけなんて。美奈子さんのも見せてよ」
「え? あ・・あたしの? 恥ずかしいわ・・」
「だって、さっきそう言ったじゃないか」
「ああ・・。そうね・・。じゃあ、こうしてて・・」
 美奈子は雄一の両眼を両手で押さえると、「目をつぶっててね」と言ってからスカートを穿いたまま、パンティを下ろした。
「ねえ。見たい?」
「う・・うん」
「じゃあ、目開けてもいいわよ」
 雄一が目を開けると、スカートの下で丸まったパンティーがふくらはぎのあたりに引っ掛かって止まっていた。雄一は思わず欲情してきて、美奈子の足首を掴むと、両脚を開いて、彼女の紺色のひざ下まであるスカートをめくった。
「やだ!」
 急に乱暴になった雄一のしぐさに可笑しくなった美奈子は、上から脚を開かれたままアハハと笑った。
 露わになった下半身が雄一に見詰められると、視線を感じて、美奈子は真っ赤になって言った。
「どう? 見える?」
「ううん。暗くてよく見えないよ」
 既に太陽は西に傾いていて、屋根裏部屋の高い窓から差し込む光は陰っていた。
「じゃあ、こうする?」
 美奈子は履いていたスカートを脱ぐと、ベッドの上に仰向けになった。
「ねえ、男の人は、二つだけでしょ?」そう言いながら股間を両手で隠すと、「でも女には三つあるの。知ってた? 雄一さん、わかる? 数えてみて」と言って、股間を隠していた両手をどけて両膝を抱え、太ももを左右に開いて見せた。
「え? 三つ?」
 そのとき急に、雄一の頭に、坐禅をしていたときに見た三つの時計の幻覚がフラッシュバックしてきた。部屋になぜか時計が三つもあって、その針がまっすぐ一直線に六時を指し示していた。つまり、六が三つ。六六六じゃないか! なぜ今までそのことに気づかなかったのだろう。否、なぜ今そのことに気づいたのだろう。雄一はギョッとして美奈子を見た。
「いいわよ・・触っても・・」
 美奈子は両膝を抱えて脚を開いたまま、露わになった裸の下半身が雄一にもっとよく見えるように腰を上げながら、目を伏せた。
 横を向いて目を閉じている美奈子の頬が紅潮している。
「早くぅ、数えてみて・・」
「え? 数える?」
「そう。こうしてるから、数えてみて」
 雄一は目の前に開かれた裸の女の股に顔を近づけて、それを眺めた。六時ぴったりを示す時計の針が丸い文字盤を真っ二つに分けているように、美奈子の丸い性器の上には、まっすぐ縦に走る割れ目の筋がしっかりと口を閉じていた。でも、一つ目は、開いた大臀筋と大臀筋の間で露わになっていたから、探すまでもなく簡単に見つかった。
「ここにひとつ」
 十六花弁の菊の蕾のように閉じたピンク色の粘膜に指先をあてた。
 雄一は、なぜかそこに6の字を書いてみたくなった。魔法の印をつければそれが永遠に自分のものになるような気がした。それが悪魔の魔法でも構わない。今は美奈子を永遠に自分のものにしたかった。震える指先でそこに小さい6時の字を書いた。
「ああ・・そう・・そうよ」
 美奈子は股を広げたまま身悶えて、ため息をついた。
「次はどこだかわかる?」
雄一は今度は、まっすぐに口を閉じた割れ目を指で恐る恐る開くと、そこに残りの二つを探して指先でまさぐった。
「ここにふたつ目」
 雄一は濡れた露で光っている充血した二つ目に人差し指の指先を入れた。そして、その中でも指先を動かして6の字を書いた。
「ああ・・そう・・そこ・・」
 雄一は、露わになった美奈子の性器から蜜が溢れてくるのを見つめていたが、急にそこを舐めてみたくなって舌先で触れてみた。
「ああ、いいわ。感じる」
 雄一は、欲情してきて、我を忘れて興奮してしまい、そこにしゃぶりついた。
「ああ・・ダメダメ・・雄一さん・・だめよ・・まだ見つけてないじゃない。・・ああ・・もうひとつは?」
 雄一は大きくひとつ息を吸い込むと、今まで舐めまわしていた股間から口を離し、鼻先を近づけて覗き込んだ。そして、最後のひとつを探してピンク色の粘膜の襞を指先で開いた。
「ああ、ここ?」
「ああ・・そう・・イヤ」
 雄一はそこにも指先で小さく6の字を書いた。
「ああ・・雄一さん・・全部見つけたのね・・あたしの・・全部」
 美奈子は、裸の腰を振るわせながら、雄一のペニスを握って言った。
「今度はあたしが・・あなたの童貞、落してあげる」
「え?」
「入れてもいいわよ・・もうどこだかわかるでしょ?・・ああ・・そこ・・そこよ・・」
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「ねえ。どうして結婚しないの?」
 雄一はそう言うと、彼女の答えも聞かずに立ち上がって、教会から外に走り出した。
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 それから一年後、雄一の母が死んだ。
 大学病院に駆けつけると、ベッドの上で眠るように安らかな顔をして眠っていた。決して死んでいるのではない。雄一はそう思った。否、そう思い続けようと思った。
 仕事場で倒れたらしい。脳出血だった。
 どこで聞きつけてきたのか、近所で一番仲のいいおばさんが既に病室にいた。
「あなた、親戚に知らせた? お母さんの妹さん、仙台にいるんでしょ?」
 雄一はロビーに降りて行き、公衆電話に百円玉を何個も入れ、仙台の叔母に電話を掛けた。
 するとなぜか叔母ではなく、連れの叔父が電話に出た。
 母が逝ったことを話すと、叔父は静かに言った。
「なんも心配するな。オレが全部面倒みるから。今から新幹線で行くから待ってろ」
 言葉通り、叔父と叔母は新幹線で飛んで来た。
 翌日、火葬場で簡単な告別式をやり、そのまますぐに焼いてしまった。
 まだ高二で、働くこともできなかった雄一は、仙台の叔父と叔母の家に引き取られることになった。
 美奈子とあんなことがあってからも雄一は、日曜日にはいつものように教会に通っていた。美奈子は雄一を見ても何事もなかったように接した。雄一は美奈子を傷つけたと思っていた。だから、どうにかして美奈子に償わなければならないと思っていた。どこか遠くに行きたかった。でも、雄一は仙台には絶対行きたくなかった。だから、ひょっとして、こんなことはできないかと考えてみた。田舎に行くより、もしできるなら、あの中学校のときに行った神学校に入ることはできないだろうか。
 雄一は思い切って教会に行ってみた。そして、もう既に二十年以上も牧師を務めているベテランの鏡子先生に相談してみた。母が亡くなったことを告げ、これから自分は仙台の叔母の所に行かなければならないが、本当はそうしたくないと告げた。鏡子は雄一に同情して、そこから高校に通うことができるなら、神学校の牧師が寄宿している部屋に住み込むことができるかもしれないと、一縷の望みを一緒に考えてくれた。当然、高校を卒業したら牧師になるのだろう。否、高校を卒業する前に既に、神学校に住み込む時点で、牧師になることを決めたも同然だ。でも、それでもいいと雄一は思った。母が死んで、もう何も信じられなかった。キリスト教なんて本当はもうどうでもよかった。洗礼を受けても何も感じなかったし、そればかりか、洗礼の最中に性的欲望に駆られてしまったこと、そして、それだけではなく、美奈子さんとあんなことまでしてしまったこと、それでも牧師になろうと思っていること、すべてが矛盾していて自分でも何が何だか分からない、でもどうしようもない、自分でも、もうどうにもできない、ぼくは自分で自分をどうすることもできない、と雄一は思った。でもふと急に、なぜだか急に、逆にこれからの人生、なんだか面白いことになるかもしれないと思えてきた。なぜなら・・そうだ・・もし・・
「もし、ぼくが牧師になったら、この教会に、牧師として派遣されるかもしれない。いや、ぼくはなんとしてもこの教会の牧師になりたい。そして、ここに住み込みたい。この教会の祭壇の上の、あの屋根裏部屋に。そしたら、美奈子さんとまた仲良くなれるかもしれない。それに、他の先生たちとも・・。いや、そんなことはできない。そんなことはどうでもいい。母と暮らしたこの町にずっと住んでいたい。ただそれだけだ。でも、どうして彼女たちは皆独身なんだろう。ぼくが牧師になったら・・ああ・・もしそうなったら・・ぼくはこの教会に住み込み、そして・・そして・・ぼくが、この教会を建て直すのだ。もっと気の利いた説教をし、信者を増やし、献金を増やし、もっと裕福になって、そして・・そうだ、三姉妹を幸せにするのだ。母の代わりに・・」
 しかし、結局、雄一は、仙台に行くことになった。有無を言わさず、叔母の連れの叔父が雄一を引き取った。アパートを解約し、母の勤めていた工場に挨拶に行き、雄一の学校に回り、役所に行き、すべての手続きを手際よく済ませて、彼を仙台の家に連れて帰った。
 
 仙台の田舎には南無阿弥陀仏の仏壇があった。が、だれも格別、浄土宗の熱心な信者というわけでもなかった。ただ、親戚が集まって母の遺骨を寺の墓に埋めるとき、「南無阿弥陀仏」とお題目を口先で唱えていただけだ。修の言ったようには、だれも“自分を見つめ”たりはしなかった。でも、偽善者よりはましだと雄一は思った。あの中一のときに行ったキャンプで見た偽善者の牧師。あんな奴がいるから、美奈子さんは独身なのではないか。真理子先生は結婚したのにまた教会に戻ってきてしまったのではないか。そして、鏡子先生も独身のままなのは、キリスト教のせいなのではないか。そんなことを思いながら、雄一は、坊主がお経を上げるのを黙って聞いていた。
 もう母にはこの世では二度と会えない。でも、無くなってしまったわけではない。きっと霊魂は永遠に生き続けるのだ。そう自分に言い聞かせた。が、涙は止まらなかった。自分でもどうしようもなく、雄一は人前でひとり、泣き続けていた。
 叔父は東京の甥だと言って雄一を親戚に紹介した。見たこともないおじさんやおばさんが優しそうに微笑んでくれた。でも、雄一はひとりだった。自分がたったひとりなのを感じた。
 雄一は叔父の家に引き取られてからも、近くに禅寺を見つけて、そこで坐禅を続けた。教会には行かなかった。否、一度だけ、教会を見つけて中に入った。牧師は小柄な男で、聖書を読むのは初めてですか、と雄一に訊いた。子供の頃から日曜学校に通っていたと言うと、牧師は喜んだ。雄一が毎週通ってくると思ったのだろう。でも、雄一はそれっきりその教会には行かなかった。雄一が通っていたあの三姉妹の教会とはまったく違う何か別のもののような気がしたから。そこには子供の頃、あの教会で感じた温かい光のようなものがまったく感じられなかったから。それに、小柄な牧師は見るからになさけなさそうな男だったから。
 雄一は県立高校に通いながら、これからの進路について考えはじめていた。叔父は、雄一とは血がつながっていない。東京の大学を出て東京で就職している俊夫という男の子がひとりと、家から専門学校に通っている妹の正子がいた。家は農家で、米だけでは食べていけないというので、花を栽培していた。叔父の年老いた両親も、朝早くから働いていた。だから、雄一は、高校を卒業したら、たぶん自分もここで叔父さんの手伝いをするのだろうと思っていた。なにかにつけて、息子の俊夫の話がでた。小さい頃会ったことがあるような気がしたが、よく覚えていない。ずいぶんと優秀な息子らしい。東京の商社に就職しているという。農業はこれから先、減反だの自由化だのでやっていけなくなるから、東京で就職するのが一番だ、というのが叔父の持論だった。純朴でいい人だったが、雄一は懐けなかった。親父というものを知らなかったので、保護者の立場の男性と、どう付き合ったらいいのか分からなかったのだ。叔母は一日中忙しそうに働いていたし、正子は雄一と口をきかなかったから、誰も話す相手がいなかった。雄一はだから、ただただ勉強に没頭した。それでも、東京の大学を受験したいなどとは、自分の口からは決して言えなかった。
 年が明けても、雄一の進路について、叔父も叔母も何も言わなかったし、雄一に何も訊こうともしなかった。そして、雄一は高校を卒業した。そして、当然のように農業の手伝いをするようになった。
 農家もいいものだと思った。朝日を浴びて汗を流して働くと、自分もだんだんと本物の田舎の人間になっていくような気がした。東京で育ったひ弱な自分が、どんどんたくましくなってくるように感じると、少し嬉しかった。ところが、お盆になって、東京から俊夫が帰って来ると、いきなりこんなことを言って雄一と叔父を怒鳴った。
「雄一。お前、なぜ大学行かなかった! それに、親父! なぜこいつをこんなところで働かせてるんだ!」
 雄一にとっては有り難いような、有り難くないような話だと思った。が、俊夫がこう言うのを聞いて目が覚めたような気がした。
「雄一。お前、ここから出ていけ! そして、自立して働け!」
 叔父は、すまなそうな顔をして黙っていた。そして、正子が初めて雄一に向かって言葉を喋った。
「雄一さん。この家のことは心配しなくていいから。東京でもどこでも行きたいところに行ってちょうだいな」
 降って湧いたような進路変更だったが、雄一は躊躇しなかった。
 次の日には、叔父、叔母、俊夫、正子に礼を言って、一年余り過ごした叔父の家を後にした。叔父は、「少ないけど持っていけ」と言って、金をくれた。
 もうだれも身寄りがない。でも、叔父の家を出たのは俊夫に言われたからだけではない。なんだか、もうこの家にはいられないような気がしていた。俊夫が帰ってきてああ言われなくても、遅かれ早かれ自分から出ていただろうと雄一は思った。そして、俊夫は善意でああ言ってくれたことを雄一は感じていた。
 雄一が東京に戻って最初に訪ねたのが、あの禅寺だった。和尚は事情も根掘り葉掘り聞くこともしないで、とりあえず雄一が納骨堂に寝泊りすることを許してくれた。
 本堂の仏壇の裏の納骨堂には、白い布が被された骨壷が何列も並んでいた。一人でそこに入ると不気味だったが、なるべくここが納骨堂だということを考えないようにした。布団一式と、文机を貸してくれたので、骨壷が並んでいる棚がある以外、広くて静かなスペースを雄一ひとりが独占することができた。ところが、考えないようにしていても、やはり恐怖感がこみ上げてくる。夜になるとなおさらだった。日が暮れると、納骨堂の中はしんと冷えて、裸電球を灯しても、なにか薄暗く、普段は考えないような怖いことを、ついつい考えてしまう。
 雄一は、あのときの光景を思い出してぎょっとした。
 坐禅をしていて急に部屋が明るくなったとき見た光景。部屋の中に時計が三つあって、どの時計の針も真っ直ぐ垂直になっていた六六六の暗示!
「やっぱり、ぼくは、呪われているんじゃないか。だから、ぼくは今、こんな納骨堂にいるんじゃないか。それに、なんでぼくは、三姉妹のいる教会に通っていたんだろう? そして、なぜ美奈子さんに、ぼくにあんなことをしたんだろう。そして、なぜ母は急になくなってしまったのだろう?」
 いろいろなことが次から次へと頭に浮かんできて、悔恨の念に取り憑かれ、雄一はひとりで悶え苦しんだ。六六六の謎のように、簡単に解けそうもない苦悩から逃れるためにはどうしたらいいのだろう。でも、雄一にはどうすることもできなかった。でもそうだ、これだけは確かなことだと思いついた。
「とりあえず、何かアルバイトを見つけよう。そして、叔父さんからもらった金と足してアパートが借りられるようになったら、ここを出よう!」
 ところが、なぜか、アルバイトがなかなか見つからず、一ヶ月も納骨堂に寝泊りして、朝食と夕飯だけは和尚とお上さんと一緒に食べながら暮らしていたある日、和尚が奇妙なことを言い出した。
「実は、自分には子供がいない。きみ、よかったらうちの養子にならないか。そして、坊さんになってみないか」
 頭を丸めるのかと雄一は思った。にわかには信じられなかったが、悪い話ではないような気がした。この寺は檀家もたくさんあるし、かなり裕福なのは確かだった。真面目に考えてみようと思った。でも、ひとつ気になることがあったので、思い切って和尚に訊いてみた。
「実は、ぼくはクリスチャンなのです。十三歳のとき、プロテスタントの教会で洗礼を受けたのです」
 すると和尚は目を丸くして驚いた。そして、すぐに噴き出した。
「アハハハハ!」
 大声で笑ってから、真面目に言った。
「いいじゃないか! クリスチャンけっこう!」
 今度は雄一が目を丸くして驚いた。
「だって、ぜんぜん違うじゃないですか! いいんですか!」
 すると、和尚は神妙な顔になって言った。
「きみ、仏教の大学に入りなさい。私が推薦状を書くから。それから、得度しなさい。いいかね。この納骨堂に一ヶ月も泊まり込んどるなんて、何かの縁だ。見たところ、根性も坐っとる。四、五年かかるが、なぁに、あっという間だ。どうだね。やってみるか?」
 雄一は、とりあえず、ハイ! と答えた。
 ところが、次の日(日曜日だった)、雄一は、この寺から逃げ出した。
 可愛がってくれた和尚や、お世話になったお上さんにお礼の一つも言わずに、雄一は寺を飛び出した。そして、あの教会に走った。
 仙台から帰ってきても、避けるようにして近づきもしなかった教会。
 大人の礼拝は既に始まっていた。礼拝堂の扉を開けると、中から光の洪水のような讃美歌が押し寄せてきた。雄一は、賛美歌を(ずいぶん久しぶりに、懐かしく感じた)以前と変わらず、真理子先生が弾くオルガンに合わせて、四、五人の信者が歌っているのを聴いた。正面の左側にあるピアノの前には、美奈子も座っていた。
「それでは、神様にお祈りしましょう」
 鏡子牧師は、礼拝堂に入ってきた雄一に気づいた。そのとき、彼女の顔は明るく輝いた。
「アーメン。神よ。あなたは今日、いなくなった放蕩息子の喩えのように、懐かしい方をまたこの教会にお導きくださいました。アーメン。家を出た息子が帰ると、父は喜んで宴を催し歓迎しました。一度も家を出た事のない兄は彼に嫉妬して父に不満を言いました。すると父はこう言って兄をなだめました。『お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」
 礼拝の後、真理子が上目使いに雄一に言った。
「お昼を食べていってちょうだいね」
 もちろん鏡子も異論はなかった。ところが、美奈子だけは浮かない顔をして言った。
「無理言ったら悪いわよ。お姉さん」
「あらどうして、いいわよね? 久しぶりなんだから」
 真理子が言うと雄一は赤面した。
「ええ。でもお邪魔じゃないですか?」
 子供の頃のように無邪気には、この三姉妹に混ざってお昼をご馳走になることはできなかった。
「あーそう、そう。美奈子ちゃん。彼に教えてあげたら。あなたのこと」
 真理子がそう言うと、
「ええ」
 浮かない顔で美奈子は雄一を見た。
「結婚するのよ」
 鏡子がもったいぶったように言った。
「そうですか。おめでとうございます」
 雄一は固くなって美奈子に言うと、彼女は目を伏せた。
「ぼくは、これでお暇します。さようなら」
 三姉妹に向かって言うと、慌てて礼拝堂から飛び出した。
 ぜーぜーいいながら、全速力で道を走っていた。
 母と暮らしていたアパートの前まで来ると、二階に上がる鉄製の階段に腰を下ろした。そして、階段の鉄柵に額を付けた。鉄が冷たかった。何度も頭を鉄の柵にぶつけた。その度に鉄がかん高く響いた。
 夕方になるまで、懐かしい町をただ当て所もなく歩き回った。公園のベンチで少し眠り、本屋で立ち読みし、繁華街をぶらぶらしているうち、日が暮れた。腹がすいていた。でもひとりで食事したくなかった。なぜか、今日ばかりは雄一は自分はたったひとりだと思った。そして、それが生まれて初めてつらいことなのだということに気づいた。
 また教会のところに行ってみた。今頃の時間は、夜の礼拝をやっているはずだと思った。それなのに、中はしんと静まり返っていた。きっと三姉妹の他には、昔からのおばさんの信者がひとりくらいしか来ていないのだろう。どうしようか。思い切って中に入ってみようか。でも、さっき飛び出して来たばかりだから、もうこの中には入れない。もう先生たちに合わせる顔がないと雄一は思った。しばらく教会の前をうろうろしていると、中から賛美歌を歌う声が静かに聞こえてきた。あたりはもう真っ暗だ。教会の窓だけが中からの明かりで黄色く光っている。美奈子の声も聞こえてきた。美しく、そしてなにか物悲しい声に聞こえた。あの日、美奈子が話してくれたカストラートの声って、もしかしたらこんな声だったのかもしれない。そう思いながら雄一は、美奈子のことをあれこれ想像した。
――美奈子さんは結婚するんだ。おめでとう。でも、本当に幸せなのだろうか。本当にその相手を愛しているのだろうか。真理子先生のようにまた教会に戻ってくるのではないか。――雄一はそのことを密かに期待していた。でも、もう二度と彼女とは会えないような気がした。そして・・もう二度と、彼女とキスすることもできないだろう。そう思うと、急に胸が締め付けられて、苦しかった。でもしかたがない。しかたがない。結婚するのだから。そう、だれか他の男と結婚するのだから・・。
 雄一はまた、アパートの前に戻っていた。
 母と暮らしていた二階の部屋を見上げると、明かりが点いていた。だれか別の人が越してきたのだろう。
 ひとりでに悲しくなって、鉄の階段に腰を下ろしてうつむいて泣いた。
 ふと見ると、階段の裏の隅に、おしろい花が生えていた。暗がりの緑色の葉っぱの中に、ピンク色の花が点々と咲いていた。雄一は鉄の階段の裏に回り、腰をかがめておしろい花を眺めた。ほとんどの花が萎んでいたが、中に一つ、小さなパラソルを咲かせたように開いている花があった。それをそっと摘み取り、鼻に付けた。めったに化粧しない母が一度だけ、綺麗にお化粧して出かけたことがあった。再婚しようとして、一度だけお見合いをしたことがあったのだ。雄一は、そのときの母の、柔らかい頬の、化粧の匂いがすると思いながら、摘んだおしろい花の匂いをいつまでも嗅いでいた。
 

                          (了)
 
 

  参照/引用  日本聖書協会    新約聖書(新共同訳)
           日本基督教団出版局 讃美歌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by hoshius at 10:38| Comment(4) | osiroibana | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
好調不調が激しい秋華賞、過去のデータから徹底分析!圧倒的な情報力と独自の予想で必ず勝ちにいく最強予想で誰もが驚く枠馬を大公開!馬券歴の長い人でも納得の情報がココに!!
Posted by 秋華賞 at 2011年10月06日 06:37
これを読めば今すぐにでも始められます。基本的な自己紹介からTwitterとの連動、他社のSNSサイトみたいに自分の付けた足跡が相手にわかるのかなど今更聞けない疑問を全て網羅しております
Posted by フェイスブック at 2012年01月05日 01:39
とうとうカラコンが発売されるみたいだよ!まだまだ購入できるサイトが少ないから見逃さないで!
Posted by デ コ ログ at 2012年01月24日 02:09
逆援系って大概年増ってイメージがあったけどこのサイトはみんな20代前半の女性達ばかりが登録してるみたい。ちゃんと写メも載せてくれてるし要望も明確に記載されてるから選びやすい!今日はこんなプレイがしたいからこの子!とか今日はいくら欲しいからこの子とか自分の家に近いこの子とか日替わり近距離で遊べるのが魅力です!
Posted by 近 距 離 逆 援 セ レ ブ at 2012年02月04日 07:53
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